さくらこと楽にいこう

アラフィフ女装子をいじめないでね♡

絶対的自分

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

先週、わたしの中には、具体的な何かを必要とするくせに、その何かが具体的ではない状態がある、と書きましたが、これはわたしの精神構造に起因してるようです。

というのは、わたしにはわたしの中に複数の自分が存在していて、その自分には精神レベルでの段階があります。大きく分けて3段階の深さがあります。もっとも深いところにいる自分は無意識の自分で、自分なのですがよくわからない、けれども絶対的存在の自分です。これこそが本当の自分です。その1つ上に、伝道者としての自分がいます。この伝道者が自分がコンタクトとれる一番深いところの自分で、この伝道者のみが絶対的自分のことを知ることが出来ます。そして、伝道者としての自分の上に普段の自分がいます。普段は一番上の自分だけでなんとかなりますが、少し迷うと伝道者に相談します。大抵の場合はそこで解決しますが、人生において重大な決断の場合少し違います。順番としては絶対的自分が突然決断します。伝道者は、ん!?絶対的自分が動いた!ということは今が人生において重大な時期だと判断し、普段の自分に連絡してきます。そこで普段の自分は伝道者に聞くわけです、どういうこと?そんなに重要なの?と、伝道者の自分は、うん、そうらしい、絶対的自分が動いということはそうなんだよ、と。そこで、普段の自分は考えるんです。どんな意図があるんだ?どんな意味があるんだ?と。このとき、絶対的自分が間違った判断をしているという発想はありません。絶対ですから。もしおかしいと思ったら、そう思った普段の自分がおかしいので、普段の自分は見えてない正解を見つけようと考えるのです。

わたしは子供の頃からそうやってきたのですが、このことを他人に話すと不思議な顔をされます。多重人格?と言われますが、よくわかりません。自分としては人格は一つだと思ってますから。

ただ、面白いなぁと思ったのは、この3段階の構造は宗教とそっくりなんですよね。例えばキリスト教では絶対的存在の神がいて伝道者としてのキリストがいる。イスラム教とキリスト教は基本的に同じ神ですが、伝道者が違う。仏教も、仏がいて伝道者としてしての釈迦がいる。この構造は人を説得(洗脳)するのに非常に適した構造なんでしょうね。だから自分の中で自然と自分で自分を洗脳する構造ができあがったのかもしれません。

女装をはじめたときに目的はありませんでした。なんか気分で始めたんですね。つまりこれは、絶対的自分がゴーサインを出したということです。普段の自分は何か意味があるはずだと考えるわけですが、伝道者の自分はわかってない。それとなく、絶対的自分に問い合わせてるようなのですが、要領得ないこたえしかかえってこない。なんではっきりしないのか?と伝道者に問うてもニコニコして、今はその時じゃないということでしょう、と言ってくる。普段の自分は、大きなため息ついて、しょうがないかと女装をする…。そんな感じなんです。女装をすることに迷いは無いんです。だって絶対的自分がゴーサインを出しているのだから、ただその意図が何か?に迷いがある。

だから、具体的な何かを必要とするくせに、具体的な何かがない状態というのは、正確にいえば、具体的な何かがあるんだけども、まだ意識に上がってきてない状態ということです。

 

なんか、ただ自分の内面を書き連ねただけの誰の得にもならない文章で申し訳有りません。でも普段の自分が整理できてきたので自分としては得になりました。

 

(行けばわかるさと言ってたのは誰でしたっけ?)