さくらこと楽にいこう

アラフィフ女装子をいじめないでね♡

なぜラベルを貼るのか

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

わたしは女装さんが趣味女装なのかAGなのかMTFなのか、そういうのを知りたいと思うタイプですが、そんなのどうでもいいじゃない、その人はその人、自分は自分だから、という考えの人もいます。そのとおりだと思いますし、なんならわたしの、この分類したがる癖はよくない癖だと思います。いわゆるラベル付けレッテル貼りのような、偏見や差別につながりやすい考え方です。しかし、LGBTQに限らず、日本人だからとか、〇〇県出身だから、とか、そういうカテゴライズする考え方はある意味一般的ですよね。

本来なら、”その人”を見るべきで、その人が何に属するかは関係ないはず、です。でもラベル付けをしてしまうのはなぜか?それは、そのほうが理解しやすいと思ってるからじゃないでしょうか。昔々、何かを学ぼうとしたとき、人は順序立てて学ぶことが効率がいいことを知りました。そうすると、分野にわけてそれぞれで学んだほうが学びやすいことも知りました。そうやって、学問が発達してきた(と思います、わたしは)。だから、今では小学生でも国語算数理科社会のように科目ごとに学ぶわけですよね。現実には算数にも国語が必要だし、理科にも算数が含まれてますから、これらが独立しているわけではないんです。でも、算数の文章問題の途中で日本語文法について説明されたら混乱しますよね。だから、別々にわけて学んだほうが効率がいいのです。

つまり、人は何かを知ろう・学ぼうと思ったとき、対象を噛み砕いて分類する癖が付いてるのではないでしょうか。経験上、無意識にラベル付けをしてるのでは無いでしょうか。それは、偏見や排除が目的ではなくて、対象のことを理解しよう受け入れようという気持ちのあらわれのはずです。

わたしは自分が何なのか知りたいです。ですから、自然と自分をラベル付けして分類しようとします。同じように、他人にたいしても、その人のことを理解したいと思えば思うほど分類したくなります。分類することで理解の手がかりがうまれると無意識に思ってるからです。しかし、本来、人というものは分類なんてできないですから、分類するとどこかしら矛盾や無理が起きてしまって、そのぎこちなさがお互いの関係性を悪くさせることがあります。そこから、冒頭の「その人はその人、自分は自分」という考えが強く意識されるのです。

国語算数理科社会てわけなくても、全部をいっぺんに学べる頭脳をもっていればそれがベストなように、その人が何に属しているかなんて考えなくてもその人のことを理解できるのが理想です。ですが、わたしはそんな優れた頭脳をもっていないので、どうしてもラベルを貼らないとわからない。もちろん、ラベルに踊らされないように注意しますが、どうしても貼ってしまいます。このラベル貼りが少し露骨になると、逆にわたしが他人から偏見や差別をもってる人というラベルを貼られてしまう(^_^;)。だから、わたしはわたし自身が誤解されないように注意深く行動しなければならないと思っています。

今回のお話、つまり言い訳です。わたしがしつこく分類したがるのは理解したいという気持ちのあらわれですし、分類しないと理解できない程度の頭しかもってなくてごめんあさい、ということです(^_^;)

 

(わたしはわたし、、、、なのですが、それで終わらせることができない)

 

女装は陰キャ?

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

以前、配信をしてたときコメントで「女装は陰キャ」と言われた事がありました。他の女装さん達には申し訳ないのですが、なかなか核心ついてて、少し納得しちゃったんです。だから、わたし女装さん達といるとリラックスできるのかぁと。わたし基本陰キャなんです。外出るの嫌いだし、みんなと騒ぐのはどちらかといえば苦手。

で、ここからは妄想なのですが、ゲイは陽キャなのかも、と。たしかにゲイは誰ともよく話すし明るいイメージがあります。ゲイのおかまさんもそんな感じ。中学生の頃、教室の中のカーストがありましたよね。モテモテの一軍と全く目立たない空気の三軍みたいな。一軍がゲイで、三軍が女装なのかな…。だから、わたしゲイを怖く感じたのかなぁ。中学時代、一軍ってたいていヤンキーか陽キャのイケメンばっかりで、怖かったから。なんて、そんなこといったら女装さん達にもゲイの人達にも怒られますね。でも、女装は陰キャというコメントで納得しちゃったのは、わたしの中にそういうイメージがあったからなのかもしれません。このイメージは女装する前には全くなくて、女装してからのリアルでの付き合いなどを通した感覚なので周りから押し付けられた偏見ではありません。わたしの心の中から生まれた偏見です(^_^;)

でも、そう考えれば、陰キャ女装?の人たちと率先して友達になっていけばいい関係を築けるなぁと思いました。わたしは陰キャのほうが好きですし、自分が陰キャであることを誇りに思ってます。雄弁は銀、沈黙は金ですもん。物静かなほうがいいんです。

 

陰キャという言葉は一般的にマイナスなイメージだと思いますが、わたしはマイナスなイメージもっていません。そういう言葉を使って申し訳ありません)

 

顔よりスタイル

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

女装をしてみてよくわかったのがスタイルの重要性。モデル体型でなければならないという意味ではなくて、バランスのよいスタイル。顔がイケメンでも可愛くてもスタイルがマッチしてないと評価がイマイチになる。

あごがシュッとした輪郭で切れ長の目がきれいでメーテルのような顔に、渡部直美のような体型はバランスが悪い。逆に渡部直美のような丸顔の可愛い顔でメーテルの体はバランスが悪い。渡部直美は全身のバランスがとても可愛い。

女装も同じ。ただ、女装はマスクで顔面隠すので見てる側で脳内補正するから、結局は体型が重要。赤裸々に言えば、スタイル良くてマスクで顔を隠しててフォロワーが沢山いる女装さんはズルいと思ってます(^_^;)。その人達のマスクと同様にわたしはスタイルを隠すために体をうつさないわけです。同じことをしてるけど評価は全く違います。スタイルが勝ちます。わたしはスタイルが悪いのでスタイルがいい人には絶対にかなわない。スタイル良いひとは日頃の節制や努力があるとは思うけど、わたしは生まれたときからスタイルが悪い。スタイル良いひとは持って生まれた資質がわたしと違う。うらやましいなぁ(^_^;)。でも同じようにわたしのスタイルや見た目を羨ましいと思ってる人もいるかもしれないので隣の芝生は青いということなんだろうけども。

ただ、やっぱり足が細くて華奢”だけ”が良いのではなくて、バランスが大事。さくらこの顔にマッチしたスタイルってなんだろう?と思うけど、やっぱりシュッとした女子アナのようなスタイルがマッチしてるんじゃないかって思うのです。なんか、ちぐはぐな見た目なきがするのです。違うかなぁ。

じゃぁ、わたし、B面のときにスタイルに関してどう思ってるのか?というと、見た目は気にしてなくて、スタイルも気にしてません。中身、つまり性格が大事と思ってるのです。でも、女装してから、世間はそうじゃないとわかりました。世間はもっと見た目重視。スタイル重視だと。つまり、わたしがB面でもスタイルがよければもっと良い評価を得られたに違いないのです。わたしが、福山雅治のようなスタイルだったらもっと良い評価を得られたに違いないのです。やっぱり雰囲気が大事なんです。こんなにスタイル悪いのに人並みに評価されているB面のわたしは頑張ってると思います。さくらこはわかってるからね、とB面のわたしをねぎらってます。

そういう意味では、この事実は女装して知った残念に思ったことですかねぇ。そんなことないと言う方がいるかもしれませんが、世間のマジョリティは違います。良い評価かどうかはスタイルで決まりますね。東大だから優秀とは限らないって言ってるのと同じ。世間の評価は東大卒=優秀なんですから。持って生まれた頭の良さがあるように、持って生まれたスタイルの良さがあるのです。そしてそれで評価される。それは決して悪いことではないんです。ただ、わたしはスタイルが悪い(頭も悪いけど)から、スタイルが良い人たちのような評価は受けられないということです。

 

(このスタイルは多くの人からは評価されません。一部の人に刺さるかもしれないけど)

 

 

 

インターネットの弊害

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

インターネットについていろいろな話が出てると思いますので、わたしが今更いうことも目新しいことなんてないのですが、最近しみじみ思ったので書かせてください(^_^;)。

ここ数十年で一番大きな発明ってインターネットだと思うんです。メリット・デメリットありますが、わたし個人的には、インターネットってデメリットのほうが大きいと思っています。昭和世代だからインターネットない頃をよく知ってるから、なくても生きられるし、無いほうがいいと思っています。

インターネットのメリットって、やはり圧倒的な情報を得られるということだと思うんです。今まで知らなかったコトモノセカイがすぐに検索される。Amazonで買い物できる、Youtube見られる、色々便利になりました…。でも、それって0から1じゃなくて、1から100に変化したことだと感じます。買い物だってネットが無い頃からできてましたよね。動画というかテレビ見られましたよね。新聞もありましたよね。それらがすぐにどこでも手に入る”便利さ”が得られるようになっただけで、電気を発明したような0から1への変化ではなかったと思います。

このメリットがすなわちデメリットでもあるのですが、圧倒的な情報っていらないことのほうが多いです。わたしたちにとって必要な情報は”量”ではなくて”質”です。量が増えることで質がわからなくなる。玉石混交というやつでしょうか。でも、なぜかヒトは量が多いほうが質も高いと思ってしまう。ヒトの判断基準が質より量に偏ってしまったこともインターネットの弊害かなと思います。

小学生の頃、クラスで一番足が早いと尊敬されました。学年でかけっこが一番速かったらヒーローでした。あるいは、クラスで一番物知りだったら博士と呼ばれました。しかし、今はその場でググられて、君より速い子はくさるほどいるよ、とか、君の知識は不十分だ、ぐぐったらもっと詳しいことが書いてあった、とか、何も出来ない何も知らないやつにしたり顔で言われたら、モチベーションだだ下がりです。もっと足速くなろうとか、もっと物知りになろうなんて思わない。いやいや、まわりは関係ないよって言われても、目の前の人達の反応が悪かったらつまらないですよ。わたしはインターネットがない時代に幼少期をすごせてよかったと、ほんと心から思います。

女装に関してもやっぱりわたしはデメリットのほうが多いと思ってます。いろいろな情報、メイクのやり方とかネットで知りましたから、インターネットがなかったらここまでのクォリティは達成できませんでした。それは断言出来ます。しかし…わたしの女装、いや多くの女装にとってクオリティを高めることって本質じゃないんです。自分が満足、納得いく女装ができるかどうかが大事です。もしインターネットがなかったら、クオリティ低い、けれども比較対象もなにもない自分だけの世界での女装になるわけで、達成感は大きなものとなるでしょう。でも、いまはネットがあるから、自分でどんなに大きな達成感があってもネットにはもっともっとクォリティ高い女装さんたちがいるわけで、それを見て全然だめだぁとなります。そりゃモチベーション下がりますよね。いやいや、まわりは関係ないよって言われても、自分の中のモチベーションが下がったらおしまいです。

インターネットの発明は必然でしょうから避けられないことだったわけですけど、もうほんとこんなのいらないよなぁと思います。21世紀という時代、ささやかな幸せで満足できる環境は得られないんですね(泣)

 

(インターネットがない時代にこんな可愛くメイクできたら幸せなんだけどなぁ)

 

生まれ持った長所に頼ってはいけない

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

以前、Twitterか何かでこういった話を目にしました。

20代のとても可愛い男の娘と出会ったけど、その娘は男性に抱かれることでお小遣いをもらってた。言動を見てると、深く考えておらず、思考が未熟である。これは、若いときに男の娘として可愛くなってしまったせいで、本来様々な悩みや苦労を経験すべき時期に大人の男性の援助を受けてしまったために精神的な成熟に至らなかったからだろう。

そう考察されてた。確かにそうかなと思う。納得しました。で、思ったのが、これ女装に限った話じゃないぞと。そして、なんか目からウロコが落ちるような気付きが有りました。

例えば、これはわたしのひがみもあるんですが、イケメンは苦労を知らないと。特に若い時期は何もしなくても女の子がよってくるから悩みが少ない。わたしのようなブサメンはあの手この手を考えますから、その工夫が結局モテるモテない関係なく自分の幅を広げてくれたと思ってます。

あと、頭がよい人たちもそうだと思いました。頭の作りはやっぱり違いますよね。特に若い時期は、「遊んでても学校の成績が良い人」と「勉強しても成績が悪い人」の差が目立ってしまう。下手に頭の作りがよかったせいで、苦労をせずに偏差値の高い大学に入ってしまう、精神的に未熟なままで。しかしどこかで壁にぶつかるわけです。そこで折れてしまう。

余談ですが、、この「下手に頭の作りがよかったせいで偏差値高い大学までいけてしまう」というのは、イケメンや可愛い男の娘よりはるかにメリットが大きいために問題として顕在化しにくいんです。だって、大学生あたりまでは学歴偏差値が絶対なので、本人は強気だし世間の評価もある意味甘い。だから、試験の成績が良い”だけ”の未熟な若者は非常に多い。偏差値的にはそれほど高くない大学に苦労してたどり着いた若者こそが精神的に成熟しているのに、世間の評価が厳しい。だって、大学名で判断するから。日本が現役進学偏差値原理主義のアホバカクソ国家になってるのもそのせいだろうと思います(新卒カードってなんだバカ)。

女装の話からそれましたが、ここから得る教訓があります。

人それぞれ生まれ持った長所があります。しかしその長所に頼りすぎたら短所になってしまう。イケメンに生まれたらモテることに頼らないこと。頭の作りがよかったら勉強に頼らないこと。可愛い男の娘に生まれたら女装しないこと!←これは100%ねたみです!あはは。

 

(わたし、ブサイクなバカに生まれてよかったんだもん(;;))

 

女だらけの世界

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

以前、高校時代は男子校だったとお話しましたが、中学時代は共学でした。一般的な公立中学校です。でも、わたし吹奏楽部だったんです。けっこう大きな吹奏楽部で部員は全員で90人くらいいたかも。各学年30人くらいいました。そこに男子は数名。わたしのときは同学年の男子はわたし含めて4人だけでした。つまり9割近く女子の世界だったんです。部活のときは、男子校とは正反対の女子だらけの世界でした。この環境も今の女装につながってるのかもしれません(^_^;)

当時はとにかく女子の先輩が怖かったですね。男子は人数が少ないので存在感が薄く女子だけの世界だったので女子的な?先輩の洗礼を受けました。女子の先輩に囲まれて泣かされもしました。男子の先輩は泣いてるわたしを見て、頑張れよ!って言うだけで逃げ帰ってましたから、男子はあてにならんと思ったものです。

そういう環境でしたから、女子に対してときめくなんてことは一切なくて、仲間という意識でした。吹奏楽だから楽器の貸し借りもあるのですが、なんの抵抗もなく女子が吹いた楽器を吹いてたし、その逆もしてました。もちろんハンカチでぬぐう程度はしますが。ときめきなんてないので、別に部屋で2人きりで練習しててもなんにも感じなかったし、こいつがいなけりゃ練習サボれるのにと思ってたりしてました(^_^;)

同じ楽器パートの女子はよく話をしてて仲が良かったのですが、お互い卒業して、わたしの高校の文化祭に来たことあったんです。わたし目当てじゃなくてね。それで、久しぶり〜!みたいな話をしてたのですが、あっという間に男子高校生に囲まれたんです。わたしは何事か?と思ってたんだけど、みな可愛い可愛いと言ってて、こういう顔を可愛いというんだぁと勉強になった思い出があります。お前モテモテじゃんと伝えたら顔真っ赤にしてて、女子だなぁ、と思いましたね。

わたし美的感覚がずれてるみたいで、可愛いとか美人とかよくわからないんですよね。大学のときも友達になった女子はモテモテで話をきいたらその友達のお母さんはミスコン優勝経験有りとかそんなレベルの家系でした。でもわたしはよくわからなくてトキメキも何もなかった。ただ面白い友達でした。

じゃぁ、女子に一切ときめかないかというと、そんなことないんですよ。ときめく女性もたくさんいます。ズレてるだけです。わたしはデブス専だとよく言われました(^_^;)

こういう環境だったからなのか、もとからなのか異性に関しての恋愛感情は少しズレてたのかもしれないです。女装することに抵抗がないのも異性に関する感覚がゆるいからかもしれません。

わたしは今現在は男性、とくにおじさんが怖くて苦手です。女性は好きです、好きというのは友達のような感覚で。でも女性相手だとどうしても性欲がよぎる。それが嫌でしょうがないんです。性欲なしに女性と関わりたいと思ってきました。それはこの中学時代の経験があるからでしょうか?あるいは高校時代の経験があるからでしょうか?それとももっと別の要因があるのでしょうか?よくわからないです。自分が女性だったら、女性と性欲なしの友達になれると思うのですが、レズビアンもあるし、なんとも言えないですよねぇ。

 

(女性になりたいわけではないけども、女性と無欲な友達になりたい)



 

 

絶対的自分

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

先週、わたしの中には、具体的な何かを必要とするくせに、その何かが具体的ではない状態がある、と書きましたが、これはわたしの精神構造に起因してるようです。

というのは、わたしにはわたしの中に複数の自分が存在していて、その自分には精神レベルでの段階があります。大きく分けて3段階の深さがあります。もっとも深いところにいる自分は無意識の自分で、自分なのですがよくわからない、けれども絶対的存在の自分です。これこそが本当の自分です。その1つ上に、伝道者としての自分がいます。この伝道者が自分がコンタクトとれる一番深いところの自分で、この伝道者のみが絶対的自分のことを知ることが出来ます。そして、伝道者としての自分の上に普段の自分がいます。普段は一番上の自分だけでなんとかなりますが、少し迷うと伝道者に相談します。大抵の場合はそこで解決しますが、人生において重大な決断の場合少し違います。順番としては絶対的自分が突然決断します。伝道者は、ん!?絶対的自分が動いた!ということは今が人生において重大な時期だと判断し、普段の自分に連絡してきます。そこで普段の自分は伝道者に聞くわけです、どういうこと?そんなに重要なの?と、伝道者の自分は、うん、そうらしい、絶対的自分が動いということはそうなんだよ、と。そこで、普段の自分は考えるんです。どんな意図があるんだ?どんな意味があるんだ?と。このとき、絶対的自分が間違った判断をしているという発想はありません。絶対ですから。もしおかしいと思ったら、そう思った普段の自分がおかしいので、普段の自分は見えてない正解を見つけようと考えるのです。

わたしは子供の頃からそうやってきたのですが、このことを他人に話すと不思議な顔をされます。多重人格?と言われますが、よくわかりません。自分としては人格は一つだと思ってますから。

ただ、面白いなぁと思ったのは、この3段階の構造は宗教とそっくりなんですよね。例えばキリスト教では絶対的存在の神がいて伝道者としてのキリストがいる。イスラム教とキリスト教は基本的に同じ神ですが、伝道者が違う。仏教も、仏がいて伝道者としてしての釈迦がいる。この構造は人を説得(洗脳)するのに非常に適した構造なんでしょうね。だから自分の中で自然と自分で自分を洗脳する構造ができあがったのかもしれません。

女装をはじめたときに目的はありませんでした。なんか気分で始めたんですね。つまりこれは、絶対的自分がゴーサインを出したということです。普段の自分は何か意味があるはずだと考えるわけですが、伝道者の自分はわかってない。それとなく、絶対的自分に問い合わせてるようなのですが、要領得ないこたえしかかえってこない。なんではっきりしないのか?と伝道者に問うてもニコニコして、今はその時じゃないということでしょう、と言ってくる。普段の自分は、大きなため息ついて、しょうがないかと女装をする…。そんな感じなんです。女装をすることに迷いは無いんです。だって絶対的自分がゴーサインを出しているのだから、ただその意図が何か?に迷いがある。

だから、具体的な何かを必要とするくせに、具体的な何かがない状態というのは、正確にいえば、具体的な何かがあるんだけども、まだ意識に上がってきてない状態ということです。

 

なんか、ただ自分の内面を書き連ねただけの誰の得にもならない文章で申し訳有りません。でも普段の自分が整理できてきたので自分としては得になりました。

 

(行けばわかるさと言ってたのは誰でしたっけ?)