さくらこと楽にいこう

アラフィフ女装子をいじめないでね♡

好きなようにって、何?

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです

 

女装に迷いが出ることがよくあります。そんなとき「好きなようにしたらよい」というアドバイスをいただくことが多いです。とても有り難いアドバイスなのですが、わたしにはよくわからないんです。何が「好き」かわからないから迷うわけで、わかっていたら迷いません。アドバイスをしてくれる方には、わたしが好きなことがあるのにも関わらず恥ずかしがって出せないように見えてるのかもしれません。女装が好きだけど、恥ずかしくて出来ないように見えてるのかもしれません。確かにボサボサのウィッグに太っとい黒い眉に青ひげがうっすら見えてる姿を晒すことは恥ずかしくて出来ません。しかし、それを晒すことは「好き」ではありません。というか嫌いです(^_^;)。だから、そんな汚女装を晒すかどうかで迷うわけが有りません。

わたし、自分らしさという言葉が苦手なのかもしれないです。女装にかぎらず、よく聞きますよね。自分らしく生きるには、とか、自分らしさを大切に、とか。わたしには意味がわからない。だって具体性がなにもない。努力しなさい、という言葉と同じです。言ってる人が気持ちよくなってるだけで、なんのアドバイスにもなっていない無駄な言葉です。わたしがB面のときに、自分らしく生きたらいいよ、と言われたら、真顔で自分らしくというのはどういう意味ですか?と聞き返しちゃいます。うーん、それは自分が思ったように行動したらいいということだよ!と言われても、だから僕は迷っていることを伝えたわけです。あなたのアドバイスはただ振り出しにもどっただけです。と言っちゃうかも。そんなこと言ったら、なんじゃこのめんどくさいやつって苦笑いのまま二度と話しかけてこなくなっちゃいますよね。だから、わたしは友達がいないわけです。めんどくさい人間なので〜。

閑話休題

究極的には好きなことを迷いなくできる状態がベストです。好きなようにしたらいいというアドバイスは間違っていません。しかし、何が好きかなんて考えなくてもいいよ、という意見には、ちょっと同意出来ないですねぇ。わたしは生きている意味すら考えちゃうくらい具体的な目的を知りたがる性格なので、好きなことをしてるとしたら、何が好きなのか?は具体的に意識しないと気持ち悪い。わたしの潜在意識の中には好きな”何か”は存在しているのですが、それを顕在化出来てないと気持ち悪い。この、わたしの具体的な何かを知りたがるくせに、その何かが具体的ではない状態については別のときに説明したいなと思います。

なんか、妙に堅苦しいお話になってしまいました(^_^;)

 

(何が好きで女装してるんですかねぇ?)

 

 

 

裸の王様

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

裸の王様という童話がありますよね。権力のあるものはまわりがイエスマンばかりになって自らの汚点に気づきにくくなる。そういった意味合いの童話だったと思います。権力とは違いますが、イエスマンばかりになるのはTwitterも同様かなと思います。自分のツイートに批判的なレスはほとんどみませんし、他人のツイート見てても批判的なものはありません。正直いえば、これはどうなの?って思うツイートあってもわたしは何も書きません。すると好意的なレスばかりになってて、わたし書かなくてよかった〜ってほっとします(^_^;)。同様のことはわたしのツイートにも起きてると思います。批判的なことを思っても書き込みにくいのがTwitterかなと思います。

Twitterでイライラしたくないので、好意的なレスばかりになること自体は嬉しいことなのですが、”裸の王様”という言葉がよぎるのです。自分は裸ではないか?気にしています。あ、”裸”のほうがいいねはつきやすいでしょうけど(^_^;)

わたしが言う裸というのは、独りよがりで独善的になっていないか?ということ。自分の感覚や美意識が突飛になっていないか?ということ。人それぞれ個性があるのだから構わないじゃないかという指摘はもっともですが、平凡を知らずに非凡にはなれません。多くの人が感じる美がなにかを判定できてこそ、個性が際立つわけで。わたしは自分の美意識に全く自信がないので、SNSでの反応をとても参考にしています。ですから、裸の王様状態になってしまうと価値観が狂ってしまうのです。ときには辛辣だけど建設的なコメントもほしいなぁと思ってしまいます。凹みたくないけど…。

あと、自分が絶対的に正しいという価値観で話をすすめてしまうのも怖いです。何が正しいかなんて実はよくわからないし、ましてや女装は問題が複雑です。自らの価値観をもつことは素晴らしいのですが、その価値観が唯一絶対だと思ってしまうと独善的になってします。SNSだとイエスマンに囲まれますから裸の王様一直線です。まぁ、若い人ならそうなってしまうのはわかるけど、アラフォーやアラフィフが自分が絶対だって思い込んでるのを見ると周りがしんどいですよね(特に陰で誰かを批判してる場合)。人の振り見て我が振り直せ。わたしは自分の価値観が唯一絶対だとならないように注意します。

裸の王様は最後、子供の指摘で自らが裸であることがわかりました。忖度も空気も読まない、純粋な子供の心が必要だったわけです。ですから、わたしも空気も忖度もせず、ただ自分の純粋な子供のような心を信じていきたいなと思っています。

 

(自分が可愛いと思う自分でありたい…)

 

バカなやつほど上から目線

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

SNSで女装姿を晒してますと、時々辛辣なコメントをいただきます。「キモイ」とか「死ね」などなど…結構凹むのですが、凹むよりイラつくコメントがあります。それは、アドバイスでカモフラージュした侮辱コメントです。例えば「もっとメイク練習してください」とか「もっと頑張ってくださいね」とか、もしかすると多くの人はそんなに気にならないのかもしれないけど、わたしはイラつきます。死ねやキモいよりムカつきます。

というのは、なぜか上から目線だからです。こっちはアドバイスも何も求めてもないし、全くアドバイスすらせず、高いところからニヤニヤしながら”頑張って”っていう、その性根がムカつく。キモいとか使わずに言葉遣いを丁寧にしてるところも、自分の立ち位置を安全圏においてることがバレバレでウザいです。こういうコメントは自分に対するものじゃなくてもイラつきます。時々(いやほとんど?)、コメントしてる奴は本気で親切だと思ってコメントしてることがある。流れや雰囲気的にネガティブなコメントはありえない場で、そのような上から目線のアドバイス?してるのがいる。もうこれはほんとムカつきます。サッカーW杯で日本代表の監督に偉そうに説教する奴たくさんいたけど、ほんと毎日イライラしてましたもん。おめえら素人が考えてることくらい考えてるんだよ?なんでそんなこともわからないの?おまえはそんなこともわからねぇバカなんだから、バカは黙っとけ!と。

わたしに対しても親切心なのかしりませんが、もっと頑張りましょう、って、てめえのためになんか頑張らねぇよ!と激怒しています(^_^;)

実るほど頭を垂れる稲穂かな、というように、能力ある人は上から目線にはなりません。つまり、上から目線の人はもれなく能無しです。100%です。例外ありません。

 

(バカは相手にしないからね!)

 

加工と無加工どっちが正解?

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

わたしはSNSに自撮りをあげるとき、基本はアプリ(ulike)で撮った写真をあげます。アプリでとると目の下のたるみが薄くなるし肌質もキレイになるので若返ります。でも、実は女装し始めた頃はアプリの存在を知らずにiPhoneの純正アプリで撮ってました。それでたるみが見えづらく肌質がキレイになるようにポーズや光を調節してきたんですね。アプリを使ってから劇的によくなったので楽になりました。

 

そこで悩みがはじまるんです。どっちが本当の自分なの?と。

 

iPhoneは顔認識の関係で毛穴が目立ちがちという話を聞きました。つまりiPhoneでとった写真は本来の姿と少し違うと。だから、iPhoneの純正アプリすなわち無加工写真と鏡を見比べて、鏡の印象に近づくように調整しないと”本来”の自分の姿にならないというのです。技術的には無加工ではないのですが、見た目に近づけるのだから、無加工とも言えます。なんなら、Androidは純正であっても自動的に補正が入ってる話も聞きます。実際、iPhoneと比べるとAndroidのほうが可愛く写ってます。ですから、Androidならば、iPhoneと違うけども、わたし自身は何も加工してないのでそれが無加工になります。

さらにややこしいことに、鏡で見る自分というものは無意識に脳内補正されていて、しらずしらずに理想の自分側によっているから本来の姿ではない、という話もあります(^_^;)

じゃあ、もう本来の姿って何?ってなりますし、そもそも、本来の姿を晒す理由は何?ってなります。

 

この本来の自分、無加工・加工どっちが本当論は、つきつめていくと承認欲求に行き着くと思ってます。

 

人は誰しも社会の中で認めてもらいたい承認されたい欲求があります。承認欲求を満たすもっともお手軽な方法は他人と比較して自分のほうが上だと思うことです。相対的に承認欲求を自分勝手に満たすことができます。これがいわゆるマウンティングですよね。女装メイクする人たちの中には、アプリ写真じゃなくて無加工で勝負する自分のほうが”本来の自分”をさらけ出している優越感、マウンティングがあるように思えます。少なくともわたしにはあります。だって、アプリ写真で可愛い女装子が人気になってると、無加工でもないくせに!とわたし思いますもん。わたしは、無加工>アプリという順位をもっちゃってます。だから、以前は無加工のほうがいいと思ってました。でも、どうやっても見た目は、加工(可愛い)>無加工(ブス)なのですよねぇ(^_^;)。だから、長い間葛藤がありました。そして、その葛藤に対してある程度の結論がでました。

無加工が優れてると思うのは”本来の自分”をさらけ出していると思えるからです。じゃぁ、本来の自分って何?と、最初の問題があらわれます。無加工が本来の自分?Androidは無加工?iPhoneだけしか認めない??ていうか、そもそも女装メイクしてる時点で加工じゃないの?女の子の中には、アプリもメイクの一部という考えもあるようですし、メイクがなりたい自分に近づく手段であれば、アプリだろうがカコジョだろうが方向は同じじゃないの?と。そう考えてから、わたしはアプリ写真メインであげるようになりました。そっちのほうが可愛いと思えるからです。でも、小心者で承認欲求が強いわたしは、メイクしたときは純正アプリ写真も必ず撮っていて、良いのが撮れたら無加工というタグをつけてアップします。そうやって、無加工を晒す(晒せる)自分に酔ってたりします。わたし、セコすぎる(><)

 

まぁ、どうやってもアプリのほうが可愛くなるのですが、それに近づけるようにメイクや撮り方も工夫してます。そして、定期的に無加工写真をアップして、アプリの自分にはまだまだ達してないですよと自分にも全世界にも?晒してます。でも、ふと思ったんです。これって、自分の中だけで完結しているマウンティングだと。自分の中で完結しているマウンティングは向上心の現れです。アプリ写真の自分に対して、無加工の自分がマウンティングしてる。アプリで撮った自分も本来の自分です。最高到達点の自分です。平均点を最高到達点に近づけるように無加工でのメイクやポーズなどを工夫していく。それは結果的に普段のさくらこの可愛さを上げることになるんじゃないかなと思ってます。そうやって自分の中で承認欲求を消化していけるのがベストですよね。

 

無加工でも可愛いよと言ってもらえますが、いいねの数は明らかに少ないです。それが正しい評価ですから、無加工でもアプリ並のいいねになるように工夫していきます。実際、最近は無加工のいいねが増えてきてますので、この考えは間違ってないと思ってます。なにより、精神的にはバランスとれるようになりました。いまのところは。

 

(無加工写真をアップするのは、すっぴんをアップするような気持ちです)



 

 

男子校は夢の世界?

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

わたしは高校時代男子校ですごしていました。

人生のある時期を別学で過ごすのは貴重で良い経験をしたと思っています。男子校で過ごしたから女装するようになったのか?という疑問には明確なこたえがありません。自分では全くそんな意識ありませんからNoだと思うのですが、潜在意識の中に何かがあるのかもしれません。別に男性が好きになったという経験はありませんが、部活に”可愛い”後輩が入部してきたときにドキドキした記憶はあります。いけない発想だと思って誰にも言わなかったのですが、ある日誰かが、あいつ可愛いよな、と言い始めたら皆がうんうん可愛いと言い出して、なんだか安心したことがあります。

でも、それよりも確実な感情として残っているのは、高校時代という性に多感な時期に性の呪縛から解放された経験は貴重でした。赤裸々に言えば、男子校だと、普段の生活で性的な興奮がない、きっかけすらなく、異性を意識する必要がない、ということです。友達が友達であり、そこに男女の感覚がないのです。男子ばかりだから当たり前ですが。女子がいると勝手にカッコつけるわたしにとって男子ばかりの世界は、もうほんと楽だったのです。セーラー服もスカートも全く見ない毎日は”楽”でした。男子校では、イケメンもブサメンも真に平等の世界で、ただ人として魅力的かどうかが価値でした。運動できる奴や勉強できる奴は一目おかれましたし、学外で彼女がいる奴なんかは、皆から尊敬されてました。そのとき、蹴落とそうとか邪魔しようという感覚ではなく、すごい人だという人としての価値を感じる環境でした。なので、自分も自分の夢中になることをもてば自然とまわりから評価されて良い友達に巡り会えました。この性から解放された環境は自分の真の能力を発揮することの助けになりました。この時期がなかったら自分がどうなっていたかわかりません。というのも、まぁ、この反動で高校卒業したら異性がいるだけで過剰にドキドキするようになってしまったからです、はい(^_^;)

この経験のせいなのかなぁと思うのは、わたしセーラー服とか女子高生の制服に全くときめかないんです。感じるのはアイドルとかコンカフェとかそんなイメージで憧れもないし自分が着たいともあまり思わない。でもJK制服着たい女装さんたくさんいるわけで、何が違うのかなぁと思ったとき、ひょっとしてこの経験なのかな?と思ってます。つまり、わたしにはJKとの甘い想い出が無い(^_^;)

でもそれがわたしにはラッキーだったと感じていて、女装して当時の無欲の精神になれたらいいなと思っています。でも、女装する時点でやはり性を意識してしまってるのかもしれません。少なくとも性別は意識しているわけで。ですから、男子校の世界がわたしにとってベストだったのかもしれません。あのときに、さくらこで戻ったらどうなるでしょうか?なんかみなで盛り上がってくれそうな気がします(^_^;)

 

(こんなおばさんでも、あの時代にもどったらモテモテだったかな?)

 

女装を続けて感じたこと

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

今日は4月1日エイプリルフールですがネタはしませんよ〜。

セルフメイクはじめて1年が経ちました。これまで、一週間に一度は女装をし続けてきたので何回くらいしたんだろ?100回くらいは女装してるのかな?長期間継続的に女装をしてて最初の頃に感じなかった良いことをあげたいと思います。

 

B面での情緒が安定した

以前はすぐに怒ったり感情にムラがあったのですが、女装してからほとんどなくなりました。例えば以前は約束を守らない人にブチギレてましたが、今はそういう人もいるよね、何か事情があったのかな、と思えるようになりました。なぜそう思えるのようになったのかよくわからないけど、自分が女装するくらいだから人それぞれ色々な事情があるんだろうと思えるようになったのかもしれません。

 

交友関係が広がった

女装仲間はB面では知り合えない人たちですので、女装してなかったら人生では接点のない人たちだったでしょう。趣味がある人はそういう関係性を構築できるのでしょうが、わたしは趣味がなかったので新鮮です。まぁ、これは女装というより趣味をもったから得られたことかもしれません。あ、1つ目もそうかも。

 

性の捉え方が変わった

これは女装ならではだと思います。女装子だけじゃなく、おかまやニューハーフさんたちと知り合って性の多様性を実体験として理解できました。以前わたしが思っていた、差別や偏見をもたないように、という考えがどれほど表層的な考えだったかということがわかりました。じゃぁ、実態はどういうもの?と聞かれても実はうまく説明できません。良い悪いという感覚でもなく、結構フラットにそうなんだぁ、という感覚です。伝わらないだろうなぁ(^_^;)。考え出すと、自己とは何か、欲望とは何か、なんて哲学か宗教的なとこまでいきます。底がわからないくらい深いです。なので、言葉でペラペラ説明してしまうと上辺をなぞってるように思えてしまうのです。だから、自分も含めてLGBTQやそれよりの人たちのことをなおさら語れなくなりました。とにかく、色々なんだよって言ってしまう。

 

もちろん女性の気持ちがわかるというのも女装してよかったことです。それは最初に感じました。でも、長く続けて思うのは、女装は女性ではないということ。MTFの方が女装からSRSに移行するのは女装じゃなく女性を求めてるからなのかなぁと少しだけわかった気がします。わたしはMTFではなくて趣味女装なのですが、趣味女装ですと宣言した瞬間から、自分は女性になりたい?女性になりたい男性になりたい?とか思ったりして、なんだかわからないのです(^_^;)。

でも、そういう悩み?をもてたというのは嬉しいですね。女装してよかったと思います。

 

(可愛く見られたい。可愛くなりたい。それが一番の目的です)

 

わたしの中に内包する男性的な発想

※ここで書いてあることは個人の感覚ですので、皆にあてはまるわけではありません。そんな考えもあるんだなぁ、程度に思ってください。わたしは妻や友人など周りにカムアウト済みです。

 

初めてさくらことしてバーのドアを開けたとき、それはわたしにとって大きな挑戦でした。目当てのお店をネットで調べて場所はわかっていたのですが、その場所に向かうまでに何度もやめようかと思いましたし、ドアの前で躊躇もしました。でも、なぜか、そのときに、”何ビビってんだよ、お前男だろ?”って思ってドアを開けたんですよね(^_^;)。これって、結局自分の中で男性的な考え、女性的な考え、と勝手に分類しちゃってるんだなって思います。女装して、LGBTQに理解がありますよ〜というていで実際には差別的な考えをもってるのでしょう、わたしは。

 

女装とは全く関係ないのですが、何か些細なことに挑戦するとき、ふと脳外科医の気持ちになるのです。この小さな脳神経に触れたら患者には障害がでるかもしれない、この血管を傷つけたら出血して死んでしまうかもしれない、やり直しできない一発勝負で絶対に成功させなければいけない…そんな手術。それを自分がやろうとしているときの気持ち(脳外科じゃなくて心臓外科でもいいのですが)。患者や患者の家族、手術室の看護師や他の医師、全員の思いが自分の指先にのしかかっている、そんな瞬間を想像すると、打ち震えるほどやる気がみなぎってくるんですよね。やってやる、俺に任せろ、という気持ちになってくる。絶対に成功させるから。って。このとき、わたしに任せろ、じゃなくて、”俺”に任せろ、という男性的な気持ちになるのです。これも、自分の中に男性女性の考えの差別化があるのかなぁって思ったりします。男は度胸という言葉に影響を受けてるのかな?(^_^;)

 

異常なプレッシャーがかかる状況をすすんで欲しいとは思わないけど、いざそうなったら気分が高揚してワクワクしますね。これまでも、医療行為ほどのプレッシャーはありませんが、様々な挑戦をしてきて、寸前までは逃げだしたいけど、はじまったらワクワクして楽しめたこと何度もありました。だから、大きなはなしがまいこんでくると率先して挑戦してきました。

実は、女装もそういう意味で挑戦だったのです。女の子になりたいという思いはありましたが、同時にやってやろうじゃねぇか!という度胸試しの意味合いもありました。男性的な精神が女装を後押ししたのです。複雑ですよね(^_^;)

だから、間違いなくわたしの中に男性的な発想があります。女装はじめたときに考えたのですが、自分にとって男性と女性どちらが最初なのか?ということです。女装をして女性の気持ちになったときに嬉しかった。でも、女装をしようと思ったのは男性だからです。男性的な発想があったから女装に飛び込めた。でも、女性として振る舞うとどこかほっとする…。それは、本来女性的な思考があったからではないか?でもでも…と、らっきょうの皮をむくように、男性と女性どちらが最初なんだろう?と思うのです。

卵が先か鶏が先か問題ですね。きりがないので、このへんでお話をおわりにします。

 

(めんどくさいこと考えちゃうタイプなのです、わたし)